お久しぶりの記事の更新です。管理人がここのところ忙しくて、なかなか記事を更新できない日が続いてしまいました。
さてさて、久しぶりの記事では妖怪の考察記事―――鵺についてまとめていきたいと思います。
何故鵺なのかというのは、最近読んだ『日本妖怪学大全』にて、鵺について取り上げた論文があったので、鵺について少し自分なりに調べてみたくなったからです。それでは、早速まとめてみました。
鵺という“妖怪”について
“怪異”・鵺の正体
さて、現在鵺といえば頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎という怪物のことを想像するだろう。
しかし、本来の鵺は夜中や夜明けに寂しげな声で鳴く鳥のこという。古くは『古事記』や『万葉集』にその名前が見え、夜の森などで消え入るような寂しい声で鳴くので、いつしか凶兆とみなされるようになったのだ。
そんな鵺の正体は、低山帯に棲息するトラツグミ(スズメ目ヒタキ科ツグミ亜科)のことだとされており、夜または夜明け、曇りの日などに「ヒィィー・・・ヒョォー」という哀調を帯びた鳴き声を発する。
おそらく、“怪異”としての鵺の名は、トラツグミの鳴き声につけられたのであろう。
街頭がない平安時代、夜になると街は本当に闇に沈む。そんな中、「ヒィィー・・・・・」という、か細い、もの悲し気な音が聞こえてきたらどうであろうか。耳に確かに聞こえてくるそれは、リアリティを持った恐怖―――怪異であったに違いない。
ふと考えるのだが、あまたある怪異の中でも、音に関する怪異というのは、現代の都市伝説などの都市型の怪異にはあまり見られないような気がする。柳田國男が蒐集した、地方の民間伝承の中に見られるアズキアライやカワアカゴなんかは、ずばり音の怪異である。しかし、現代の怪異、口裂け女や人面犬、八尺様なんかは明らかにビジュアルが問題にされる怪異である。
それは、夜が明かりに照らされ、よく見えるようになってしまったから。聴覚から入ってくる情報に、現代人が重きをおかなくなってしまったから―――目で見えるものばかりに、注目してしまっているからなのかもしれない。そう考えると、五感に着目して怪異を分類してみたいと思ってしまうものだ。
・・・さて、少し脱線してしまった。話を鵺に戻そう。
ちなみに、鵺の鳴き声はこちらで聞くことができる。ぜひ、夜中などに聞いてみてください。
【Nostalgic Nature】 トラツグミ(鵺)の鳴き声 - YouTube
頼政の鵺退治における鵺とは
さて、ではキメラのような怪物バージョンの鵺の図像は、一体どこから出てきたのだろうか。
怪物型の鵺が登場したの考えられるのが、源頼政の鵺退治である。
ここで、手元の妖怪事典・水木しげるの『日本妖怪大全』を一部引用してみよう。
仁平(1151~1154年)のころ、毎晩のように天皇がものに怯えられるので、高僧を招いて大法秘法を施したけれども治らない。そこで公卿が会議を重ねた結果、天皇の御殿にやってくる黒雲がその元凶だろうということで、かつて源義家がこの黒雲を晴らした前例にならって、源三位源頼政に黒雲退治を命じた。
そして夜、頼政が黒雲退治に乗り出すと、果たして御所の上空に怪しい黒雲が現れた。その黒い雲の中に怪しき姿を認めた頼政は、素早く矢を射った。すると、前記の頭は猿、体は狸・・・という怪物が落ちてきた。これをうつぼ船に入れて川に流すと、蘆屋の浦(現・兵庫県芦屋市)へ流れ着いてしまった。そこで浦人たちは、二度と災いがないように蘆屋川の川口に塚を築いてこれを封じ込めたという。
実のところ、鵺というのは、夜間に寂しげな声で鳴く鳥のことをいっていた。そのもの悲しい鳴き声が不吉なものとされたので、宮中では鵺の鳴き声が聞こえるとお祓いを行ってきたのである。つまり、頼政が退治した怪物は鵺ではなく、鵺の鳴き声にそっくりな声の怪物というのが正しいようだ。
水木しげる『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』
ここで確認しておきたいのが、水木しげるの「日本妖怪大全」で、「鵺というのは、夜間に寂しげな声で鳴く鳥のことをいっていた。そのもの悲しい鳴き声が不吉なものとされたので、宮中では鵺の鳴き声が聞こえるとお祓いを行ってきたのである。つまり、頼政が退治した怪物は鵺ではなく、鵺の鳴き声にそっくりな声の怪物というのが正しいようだ。」と解説されていることだ。
源頼政が退治した怪物鵺の話は、『平家物語』『源平盛衰記』『十訓抄』などに見られる。
ちなみに『平家物語』にある話(一部抜粋)はというと、
我身はふたへの狩衣に、山鳥の尾をもてはいだるとがり矢二すぢ、しげどうの弓にとりそへて、南殿の大床に祇候(す)。
さりながらも矢をとてつがひ、南無八幡菩薩と、心のうちに祈念して、よぴいてひやうどゐる。てごたへしてはたとあたる。
井の早太つとより、おつるところをとておさへて、つゞけさまに九かたなぞさいたりける。かしらは猿、むくろは狸、尾はくちなは、手足は虎の姿なり。なく声鵼にぞにたりける。
平家物語(『日本古典文学大系 平家物語』)より
〈現代語訳&全体概要〉 近衛天皇(他の文献では二条院、後白河院、鳥羽院、高倉院とする場合もある)が毎晩ものに怯えるので、様々に手を尽くしたが一向に治らなかった。毎晩丑刻になると、東三条條の森から黒雲の怪物が現れ、それが御所を覆うと天皇は必ず怯え出すのであった。似たようなことが堀河天皇のときにもあり、そのときは源義家が鳴弦(弓を鳴らして魔除けをすること)をして解決した。その前例にならい、今回は源三位頼政に黒雲退治の命令が下された。頼政は猪早太という従者とともに待ち伏せをし、丑刻なって現れた例の黒雲に矢を射ると、手ごたえがあって怪物が落ちてきた。それは頭が猿、体は狸、手足は虎、尾は蛇という怪物で、鳴き声が鵺のようであったという。
というもの。
頼政が退治したものは、あくまで鳴き声が鵺のようであっただけで、鵺を討伐したわけではないということだ。
ちなみに、他の本では、
『十訓抄』・・・妖魔の正体として鵼という鳥が退治される。
『源平盛衰記』・・・「頭は猿云々」の化物が退治される。な、鳴き声は鵼に似ているが、鵼であるとはいっていない。
という具合であり、キメラ型の怪物=鵺という怪異という構造をみることはできない。
鵺と鵺に似た怪異
鵺ではないのなら、じゃあ何を頼政は退治したのだ!
・・・・・と、ツッコみたいところではあるが、この怪物に対する情報は多くなく、一体何であったのかはわからない。
では、ここで少し自分なりの考察をしてみよう。
怪異が姿形を持ち、退治譚が多く語られるようになった背景には、武士たちが勇猛さを示すための、表現物として創られたと考えられている。だからこそ、時代設定は平安の世だが、「土蜘蛛草子」と「酒呑童子絵巻」は中世になってから創られたのであり、それも共に摂津源氏嫡流の源頼光を怪物退治の英雄として描いている。(香川雅信『日本妖怪史』より)
つまり、怪異はリアリティを持った恐怖から、倒されてしまうような怪物へと変貌していったと考えられる。
リアリティを持った恐怖というのは、(完全な自己解釈となってしまうのだが・・・)どういう理屈なのかよくわからない、分からないが故の恐怖のことだ。火の玉を見てしまうことも、恐ろし気な音・声が聞こえてくるのも、どうしてなのかわからないから怖い。だから、それかつての人間は怪異として扱った。つまり、それら怪異が、どんな見た目をしているのかは大事ではない。
しかし、それらを退治できるものとして扱った場合、主役は退治をする英雄たちである。彼らが立ち向かうモノは、人外の、恐ろしいものでなければならない。だから、土蜘蛛も、酒呑童子も、見て明らかな恐ろしい怪物の図像を持つようになったと考えられよう。
ひょっとすると、頼政が退治した怪物も、「とにかく強そうな人外の怪物」を表現するためにつくられた怪物なのかもしれない。「土蜘蛛草子」に見られる土蜘蛛も、蜘蛛や虎が合体したようなキメラ型の怪物として描かれているので、その可能性はかなり高いと思う。
中世に描かれた鵺の画像資料が残されていなそうなのが、残念でたまらない。
番外編:頼政の母と怪物
さて、ここで考察を止めて少し別の伝承を紹介したい。その伝承が伝わっているのが、愛媛県上浮穴郡久万高原町沢渡にある赤蔵ヶ池(あぞがいけ)である。
この池には源三位頼政にまつわる奇怪な伝説が残されている。
この地では、頼政の母は河野親孝の庶兄・寺町宗綱の娘であるとしている。京で生活していた母と子であったが、世はまさに平家の全盛。それに不満を持っていた母はついに京を離れ、故郷へ隠棲してしまった。だが山深い村での侘しい生活をしながらも、やはり母は我が子の立身出世を願い続けた。その思いはむしろ京にいた頃よりも深く激しく、遂には大願成就を祈願したのである。
近くの山で採れた竹を使って2本の矢を作ると、それを早速頼政の許へ送り、これで功を立てるよう申し添えた。そして近くの赤蔵(あぞう)神社へ参拝して頼政の昇進と源氏の再興を祈念。さらにその足で山頂の赤蔵ヶ池に赴くと水行をし、近隣の40近い神社へも足を運んで日々願を掛けたのである。
満願の33日目。赤蔵ヶ池で水行していた母に異変が起こった。いつの間にか人の姿から異形のものに変じていたのである。頭は猿、胴は狸、手足は虎、そして尾は蛇という奇怪な姿に。そしてヒョーヒョーと不気味な声を上げると、空高く東に向かって飛び去ったのである。
やがて京では夜な夜な紫宸殿の上空に奇怪な泣き声を上げるあやかしが現れ、時の天皇を悩ませた。然るべき者に退治させようと白羽の矢が立てられたのが頼政であった。源頼光や義家などの剛の者を輩出した源氏以外に、この任に相応しい者はなかった。召し出された頼政は、母から贈られた2本の矢をつがえ、中空にあるあやかしを見事射止めたのである。それが母の化身であるとも知らずに。
退治されたあやかしである母の化身は、深手を負いながらも京の都から故郷の赤蔵ヶ池に舞い戻ってきた。そして射られた折から赤く染まった池の中に飛び込んで、そのまま池の主となった。だがそれも束の間。池の主となった母は、受けた傷が元で池の底で命運尽きたという。その直後、頼政は突如平家に反旗を翻し、あえない最期を遂げてしまったとも言われる。
赤蔵ヶ池のある山の麓にあたる場所に、現在も赤蔵神社が建っている。また道なりに進むと、母が贈った矢の材料となった竹(双生矢竹)の群生地がある。奇譚と言うべき伝承は、今もこの地で生き続けている。
赤蔵ヶ池 | 日本伝承大鑑 (japanmystery.com)より
なんと、この伝承の中では、頼政の母が怪物の正体であるとして物語られているのである。簡潔に言ってしまえば、頼政の鵺退治は八百長であった、ということだ。
赤蔵神社の創建は仁平3年(1153年)正月に創建とされている。一方で、一般的な頼政の鵺退治の伝承は『平家物語』を初出とすると、鎌倉時代である。赤蔵神社の方が、少々早い時期に成立しているのだ。
もしかすると、頼政の鵺退治、もとい怪物退治の元の話はこの伝承なのかもしれない。
参考文献
・赤蔵ヶ池 | 日本伝承大鑑 (japanmystery.com)
・香川雅信『日本妖怪史』
・小松和彦『日本妖怪学大全』
・水木しげる『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』